野口英世博士とは?

野口英世博士 1876.11.9-1928.5.21

福島県猪苗代町に生まれ、19世紀末から 20世紀初頭、感染症が猛威を振るっていた時代、
医学・細菌学の発展に生涯を捧げ、アフリカの地、英領ゴールドコースト(現ガーナ)アクラで黄熱病の研究途上に殉職された日本を代表する国民的科学者です。
日本の1000円札(=10 ドル札相当)に肖像が選ばれています。

米国のロックフェラー医学研究所を拠点に世界で活躍し、梅毒スピロヘータの研究等で、1914年、1915年、1920年の三度にわたりノーベル賞の候補となりました。

細菌学者として病気の原因の究明に生涯をささげましたが、野口博士の時代は、電子顕微鏡がまだ開発の途上にあり、研究途上となったことも含め、のちに、科学技術の発展により、解決をみることになります。
しかしながら、ひたすら忍耐強く現場に即した研究を続け、原因究明に挑み、多くの論文を発表、
当時、遠くの大陸へ海を渡り、国境を越えて、人類を病から救おうとするあくなき挑戦心、スピリッツと行動力は、現代のわれわれが、今こそ継承すべきものです。
お札の肖像写真は 1918年に中南米のエクアドルで黄熱病の病原体を発見した頃に撮影された野口博士お気に入りの一枚です。

出典:日本銀行福島支店のページ 野口英世博士情報
https://www3.boj.or.jp/fukushima/noguchi.htm

時代背景と近代医学との出会い

野口博士は、日本が明治維新による近代国家への道を歩み始めた時代、佐幕派であった旧会津藩、現在の福島県猪苗代町に貧しい農家の長男として生まれました。
当時、欧米列強による帝国主義の世界の中で、極東の辺境の地から近代国家への道を志向した日本では、西洋の先進文明に学び、学問によって、人生を切り拓き、新しい近代社会を創る機運に満ちていました。
野口博士が生まれたころに、やはり、日本の一万円札の肖像に選ばれている福沢諭吉(実学ということで欧米の知識を広め日本の近代化に貢献した啓蒙家)の『学問のすすめ』(1872-1876)が著されています。

特に、明治新政府で旧政府側であった野口博士のふるさとでは、もともと武士道の精神が堅固な土地柄に加え、学問によって、広く世界に活躍の場を志し、また、それを支援する機運がありました。
野口博士も、そうした機運の下、勉学にいそしんでいたところ、16歳の時、2歳の時の大やけどで癒着した左手の手術を先生・学友の支援で受けられることとなり、左手が使えるようになりました。
手術は、米国で医学を学び現地で開業、欧州でも医学、社会事情を学び、その後帰国して、会陽医院を開業、渡部ドクトルと評判だった渡部鼎(かなえ)先生が行いました。
この渡部先生との出会いで、医学のすばらしさを実感、医学の道を志すことになります。
翌1893年、会陽医院に薬局生として入門、3年間、医学の基礎、英語、フランス語、ドイツ語を学び、渡部先生が持ち帰った洋書をほぼ読みつくします。(会話は教会で習得しました。)
志を立て、立身出世し、医学を通じ、終生、世のため人のために尽くした野口博士の出発点です。この間、1895年、18歳の時、日本基督教会若松教会で洗礼を受けています。
野口博士の生涯は、学問で道を切り開き、人類の進歩に貢献するモデルとしても意義深いものがあります。

医師となり、世界へ

その後、上京し、1897年、21歳で医師の資格を取得、伝染病研究所、横浜海港検疫所勤務を経て、
1900年、24歳でペンシルベニア大学のシモン・フレキスナー博士を頼って渡米します。
横浜海港検疫所時代に、ペスト患者を発見したことを評価され、国際予防委員会の一員として清国に派遣され防疫に従事したのが、野口博士の国際活動のスタートでした。ちなみに中国語にも長けていて、活動は高く評価されました。

※横浜海港検疫所検疫医官補制服姿

渡米後、最初に与えられた蛇毒研究で研究成果を認められ、1902年、26歳でペンシルベニア大学病理学助 手、翌年、カーネギー学院研究助手となり、デンマークに留学、デンマーク国立血清研究所で細菌学の基礎を学び
1904年帰米、フレキスナー博士が所長となったロックフェラー医学研究所(1901年創立)に迎えられ、1907年にはマスター・オブ・サイエンスの学位(ペンシルベニア大学)を受けます。 1911年には医学博士(京都帝国大学)、1914年には理学博士(東京帝国大学)の学位が授与されます。この年、ロックフェラー医学研究所正員となり、梅毒スピロヘータの研究でノーベル賞候補(以後、1915年及び
1920年に候補)にもなり、世界的評価を得ます。
1915年、帝国学士院賞恩賜賞授与。
この秋、15年ぶりに一時帰国、各地で講演、歓迎行事に出席。帰国を待ちわびていた母堂とも再会を果たしますが、渡米後の帰国は、これが最初で最後となりました。

黄熱病との闘い

1918 年より、野口博士は、当時、南米で蔓延していた黄熱病の対策のためロックフェラー医学研究所で派遣された研究班に加わり、エクアドル、メキシコ、ペルー、ブラジルと長きにわたり、研究の最前線に立ちました。

←黄熱病研究のためエクアドル・グアヤキルへ※
←リオグランデ川でワニを解剖する野口博士※
1927年、ロックフェラー医学研究所のアフリカでの黄熱病対策に志願して赴き、英領ゴールドコースト(現ガーナ)アクラでの半年に及ぶ研究の末、帰国を間近にして研究途上で黄熱病に罹患し、1928年5月21日、51 歳で殉職しました。勲二等、旭日重光章叙勲。
6月15日、ニューヨーク・ブロンクス区のウッドローン墓地に埋葬されました。

ウッドローン墓地 野口英世博士の墓碑
(写真提供 ニューヨーク野口英世記念会)

墓碑銘

Born in Inawashiro Japan November 24 1876
Died on the Gold Coast Africa May 21 1928
Member of the Rockefeller Institute for Medical Research
Through Devotion to Science
He Lived and Died for Humanity

「科学への献身を通じ人類のために生き、人類のために死せり」
と記されています。
詳しくは、

内閣府野口英世アフリカ賞ページ

野口英世博士について(日)
https://www.cao.go.jp/noguchisho/about/index.html

野口英世記念館のページ

野口英世博士は生涯で 200 編を超える和文・欧文論文を著しています。
このページでは、野口英世博士の論文の中から Journal of Experimental Medicine に収録された 104編の論文をPDFでご覧いただけます。下記の一覧よりご覧になりたい論文を選択してください。
※このPDFはJournal of Experimental Medicineに掲載された論文を Rockefeller University Press の許可(2020年3月18日付)を得てアップロードしています。
本稿の野口英世博士に関する記述では、
内閣府の野口英世アフリカ賞ページ、及び
公益財団法人 野口英世記念会の「野口英世記念館」のページをベースにさせていただいております。
※の写真提供は、公益財団法人 野口英世記念会です。